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グリム兄弟が勉強したマールブルグ大学

鶴木泰子が勉強しているマールブルグ大学とマールブルグの街

ラーン川から望むマールブルグ旧大学

ラーン川から望むマールブルグ旧大学

1. マールブルグとElisabeth教会

 

聖エリザベス教会入り口

聖エリザベス教会入り口

フランクフルトから北へ約77km、特急電車で、畑や草原、森を抜け約一時間、左手の小高い丘の上に、どっしりとした館といったイメージのヘッセン方伯の城が見えてくる。ここが、ラーン川(コブレンツの南5kmの地点でライン川に合流)沿いにこじんまりとたたずむ、大学の町、マールブルグである。マールブルグ中央駅前は、目の前に高速道路の高架が走り、古都という印象とはかけ離れた、雑然あとした印象を受けるが、駅からまっすぐ進み、ラーン川の橋を渡り少し歩くと、左手前方に、この町のシンボルとも言えるElisabeth教会の2つの尖塔が見えてくる。この教会は、トリアーの聖母教会と並んでドイツ最古の美しいゴシック建築の教会で、聖Elisabethの墓所にドイツ騎士団によって建設された。

聖エリザベス教会

聖エリザベス教会

ここで、少し聖Elisabethの紹介をしたい。マールブルグの名が知られるようになったのは、彼女の功績によるところが大きく、彼女の生涯を語ることなしにこの町を紹介することは出来ない。Elisabethは、1207年にハンガリー王女として生まれた。政略的理由により、生まれた時点で既にテューリンゲン方伯の長男Hermannとの結婚が定められており、僅か4歳でテューリンゲンのWartburg城に連れて来られた。当時の貴族社会では、婚約者の家庭の下で教育を受けるという制度が一般的であった為である。Hermannが夭折した為、その弟Ludwigと14歳で結婚した。Ludwigとは幸せな結婚生活を送り、3人の子供を儲けたが、夫Ludwigが1227年、第六回十字軍に従軍中にOtrantoで病死すると、Wartburg城を去った。

聖エリザベス病院跡前の看板

聖エリザベス病院跡前の看板

聖エリザベス病院跡

聖エリザベス病院跡

その後、アッシジのフランチェスコの教えに触れ、信仰心を篤くしたElisabethが、病人を救う為に力を注ぐなど「王女に相応しくない」生活をしていた為、疎まれていた為であると伝えられている。師父と仰ぐ神父Konrad von Marburgの元を訪ね、マールブルグに赴いたElisabethは、ここに居を定め、病院を建設、病人や貧しい人々の為に全精力を傾けた後、1231年に24歳の若さで死去した。彼女の死後、マールブルグにはヨーロッパ全土からの巡礼者が訪れるようになった。1235年ローマ教皇Gregorius9世はElisabethを列聖し、現在も多くの巡礼者が、Elisabeth教会を訪れている。

2. ルターの宗教論争はマールブルグの城で行われた

 

ラーン川よりマールブルグ城を望む

ラーン川よりマールブルグ城を望む

Elisabeth教会を背にして、左前方にマールブルグの旧市街、Oberstadt(上方の町)が見える。ここは、城が建つ丘の下に位置する。石畳の道が市庁舎のあるMarktplatz方面へと続き、戦災から免れた、様々な木組みの美しい家がひしめきあうメルヘンチックな町並みが続く。古い町の景観を保存する意味で、家を修理する場合も、外観は、壁の色なども元通りでなければならないと定められている。Oberstadtの中心、Marktplatzには、旧市庁舎が建つ。市役所の一般事務は殆ど行われず、催し物や講演会などの目的に使われることが多い。

手前:ルター教会、後方:マールブルグ城

手前:ルター教会、後方:マールブルグ城

マルティン・ルターが住んだ家に掛けられているプレート

マルティン・ルターが住んだ家に掛けられているプレート

 

Marktplatzでは、水曜日と土曜日の午前中に、新鮮な野菜、肉、チーズ、卵などを売る屋台が集まる市がたち、買い物客で賑わう。Grimm兄弟が通ったといわれる1569年築のホテルレストラン「Zur Sonne」もMarktplatzに面して建っている。市庁舎前から続く旧市街のBarfuesserstrase(Barfuesser通り)を進むと、右手にGrimm兄弟やMartin Lutherの住んでいた家に掲げられたプレートを見ることが出来る。Grimm兄弟は、1802年から1806年までMarburgに住み、ローマ法の父と呼ばれるFriedrich Carl von Savignyの下、法学を学んだ。Martin LutherとHuldrych Zwingliの間の宗教論争は、マールブルグの城で1529年にPhilipp dem Großmütigenヘッセン方伯の手引きにより行われた。

3. 大学の街マールブルグ

 

マールブルグ旧市街とクリスマスの飾り

マールブルグ旧市街とクリスマスの飾り

マールブルグには、Oberstadtに限らず、郊外も含めて、町のあちこちに大学関係の建物が建っている。大学の建物が多いという事実だけでなく、人口約80,000人のうち、大学生が18,700人、教授が338人、助手が2,000人、大学職員が5,700人という数字からも「他の都市には大学があるが、マールブルグは(町自体が)大学である」と言われる所以が裏付けられる。外国人学生の割合は約12%で、約120カ国の学生が学んでいる。

ある学生寮には、ひとつの階に、17人の学生が入居しているが、ドイツ人の他、韓国人、台湾人、コロンビア人、シリア人、イスラエル人、トルコ人、ノルウェー人、チェコ人、ブルガリア人、日本人学生が住んでいる。少し前までは、アメリカ人、オーストラリア人、中国人、ウクライナ人、アルゼンチン人、ヨルダン人の学生も住んでおり、正にインターナショナルである。また、小さい町にしては外国料理レストランも多く、人気のイタリア、中華(ベトナム、タイ)、ギリシャレストランは複数ある他、インド、メキシコ、レバノン、エリトリア、オーストラリア、外国人経営の寿司レストランもある。

 

4. プロテスタントの現存では世界最古の大学

マールブルグ大学は、宗教改革の流れの中、第二のプロテスタントの大学として、上に述べたPhilipp dem Großmütigen方伯によって、11人の教授と84人の学生のもと1527年7月1日に開学した。プロテスタントの現存の大学としては世界最古である。1527年というと、日本は室町時代(戦国時代)にあたり、1543年にポルトガル船が種子島にやって来て鉄砲が伝来した時期である。

大学には当初、神学部の他、法学、医学、哲学部が置かれていた。1606年には世界初のロマンス語学(文学)、1609年は化学の教授ポストが設置された。学生数は、最初の300年間、30人から300人の間と安定しなかったが、ヘッセンがプロシアに併合された1866年、プロイセン王立フィリップ大学に改称されると、20年間のうちに4倍に増加、1,200人以上となった。その為、病院、自然科学・医学関係の研究所は、町の北部へと移転した。1908年には最初の女子学生が学生登録、現在では、女子学生の人数の方が多くなっている(54%)

 

5. 日本とも深いつながりの街

 

雪を被ったマールブルグ旧大学

雪を被ったマールブルグ旧大学

大学では、Grimm兄弟を育てたvon Savigny(1795年~1808年)の他、フランスの物理学者/数学者で蒸気機関を発明したDenis Papin(1688年~1695年)、哲学者Christian Wolff(1723年~1740年)、化学者Robert Wilhelm Bunsen(1839年~1851年)、1901年に最初のノーベル生理学・医学賞を授与された医学者Emil Adolf von Behring(1895年~1917年)(余談であるが、彼はベルリンでRobert Kochの下、北里柴三郎と共にジフテリアの血清療法の研究をした)新カント派マールブルグ学派のHermann Cohen(1876年~1912年)、Paul Gerhard Natorp、哲学者のMartin Heidegger(1921年~1928年)といった教授陣が教鞭を執り、Mikhail Vasilievich Lomonosov(モスクワ大学創立者)、詩人・医者のGottfried Benn(1903年~1904年)「ドクトル・ジバゴ」の著者でノーベル文学賞を授与された(1958年)ロシア人のBoris Leonidovich Pasternak(1912年)、後にドイツ大統領となったGustav Heinemann(1919年~1928年)等を育てた。

マールブルグ大学(心理学部及びグラフィック・絵画 学科の入っている建物)

マールブルグ大学(心理学部及びグラフィック・絵画 学科の入っている建物)

日本人では、哲学者の三木清が挙げられる。彼はドイツ留学の際、1923年にハイデルベルグからマールブルグに拠点を移し、1924年パリに引っ越すまでHeideggerに師事した。また、哲学者の上田閑照、ドイツ文学者でMichael Ende作のベストセラー「はてしない物語」を翻訳した上田真而子もこの街で研究した。ドイツ文学者の小澤俊夫もマールブルグに客員教授として滞在したことがあり、その関係から、実弟である小澤征爾指揮のコンサートが、町の市民ホールで開かれたこともある。マールブルグは、中心部もこぢんまりとしており、歩けば必ず知り合いに出会うような小都市で、学び生活するには丁度良い大きさの落ち着いた町である。

マールブルグ焼物店(1809年以来、焼物を製造しています)

マールブルグ焼物店(1809年以来、焼物を製造しています)

ライトアップされた市庁舎

ライトアップされた市庁舎

 

6. ドイツ盲人教育研究所

また、マールブルグを紹介する際に忘れることが出来ないのは、通称Blistaと呼ばれるドイツ盲人教育研究所である。Blistaは、最初、第一次大戦中の1916年、失明した兵士達に対するリハビリの為に設置された。自らも工場事故で失明したCarl Strehlが経営者となり、1917年には、その当時としては世界で初めての、盲人の為のギムナジウム(小学校5年生からアビトゥーア〈大学入学資格〉までの教育を担う学校)が組織され、1921年に公的に認められた。ここには、寮の他、点字出版所、点字図書館、録音図書館などが整備され、現在Carl-Strehl-Schuleと名付けられている。この教育施設は、ドイツ語圏では最大といわれ、スイスやオーストリアからも生徒が集まる。Cahl-Strehl-Schuleの生徒は、例えば物理など、市内にあるギムナジウムの授業に参加することが出来る、といった市ぐるみの協力体制も整えられている。

また、大学寮には、車椅子などの学生と健常者の学生が共に住める工夫が凝らされた寮(例えば、紐を引っ張るだけでドアが開くシステム、高さが低めの台所、緊急脱出用の滑り台、リハビリ施設など)、Dr.-Carl-Duisberg-Hausもあり、障害を持った学生も健常者の学生と協力し、自立して住むことが出来る。ここには、他の寮と違って各部屋にシャワーとトイレが設置されている。

また、マールブルグの町の各信号には音を出して、青信号になったことを知らせるシステムが導入されている。このシステムは、日本では広く普及しているが、ドイツでは必ずしもその限りではない。町の人たちも、障害者の人達に対して、配慮はするが、決して特別扱いはせずに受け入れ、障害者の人達も、何の心配もなく普通に外に出て生活を楽しめる、そのような暖かさもこの町は持っている。

夕暮れのラーン川

夕暮れのラーン川

 
 

7.Grimm兄弟は大学で法学を学んだ

 

グリム兄弟が住んだ家に掛けられているプレート

グリム兄弟が住んだ家に掛けられているプレート

Grimm兄弟として知られる、Jacob Ludwig CarlとWilhelm Carl Grimmは夫々、1785年と1786年に、9人兄弟(うち3人は乳児の時に死去し、成人したのは、6人)の次男と三男として、ハーナウに生まれた。長男のFriedrich Hermann GeorgはJacob誕生の時には、既に死亡しており、基本的には、Jacobが長男として育った。兄弟の父親Phillipp Wilhelmは行政司法官で、一家は町の名士として裕福な生活を送っていた。しかし、彼は肺炎で1796年に44歳で急逝、一家は、それまで住んでいた裁判所にある大きな屋敷を引き払わなければならず、祖父や叔母の世話を受けることになった。

グリム兄弟が住んだ家

グリム兄弟が住んだ家

1798年の秋、兄弟の母親Dorotheaは、JacobとWilhelmの2人をヘッセン選帝侯夫人の女官長をつとめていたカッセルに住む叔母、Henriette Zimmerのもとへ送った。彼らに法律家になる道をつけさせようという目的もあった為である。Henrietteは2人をリュツェウム(古典語高等中学校)という九年制の学校に通わせた。兄弟とも非常に成績優秀で、飛び級をしてもなお、首席でリュツェウムを卒業している。週6日間毎日、6時間の授業を受ける他、毎日4~5時間の個人授業も受ける等、勤勉だった。2人は同じ部屋に住み、一つのベッドに寝て、一緒に勉強をしたと伝えられている。

グリム兄弟が通ったレストラン(太陽へ)

グリム兄弟が通ったレストラン(太陽へ)

1802年、Jacobは父の母校であるマールブルグ大学で、法律を勉強し始めた。Wilhelmも翌年、Jacobに続いた。当時の大学は、いわゆる社会的地位の高い職業(高級官吏、高級軍人、高額納税者など)に就いている家庭の子弟が通うのが一般的であったが、兄弟は突出して優秀であったことから、リュツェウムの校長が国王に推薦書を書き、特例で入学が認められた。彼ら2人は、ここで法学部の講師から員外教授に抜擢されたFriedrich Carl von Savignyに出会う。

1779年生まれで、兄弟とそれほど歳も離れていなかった新進気鋭のvon Savignyは、法の精神を理解するためには、民族が共有する慣習や言語の発展の中に法の起源を探り、その歴史的背景を探究すべきであると考えていた。彼は特に「ゲルマン法」に興味を持ち、古代ゲルマンの言い伝えや文書を集めていた。最初、法学を学ぶ為にマールブルグにやってきた兄弟は、von Savignyの影響を強く受け、次第にドイツの古い文化に興味をもち始め、民間伝承や古典文学に目を向けていくようになった。

マールブルグ旧市街とクリスマスの飾り「メリークリスマス(FROHE WEIHNACHTEN)」と書かれいる

マールブルグ旧市街とクリスマスの飾り「メリークリスマス(FROHE WEIHNACHTEN)」と書かれいる

また兄弟は1803年にvon Savignyの紹介で、Clemens BrentanoとCarl Joachim Friedrich Ludwig Achim von Arnimとも知り合った。彼らは、後に民衆歌謡詩集「少年の魔法の角笛」(1805年~1808年に出版)の編纂で知られることになる文学者である。「少年の魔法の角笛」は、三巻から成るドイツの民衆歌謡詩集で、民間に伝わる作品を収集したという点で、Grimm兄弟の「子供と家庭の童話集」と性格が似ている。「少年の魔法の角笛」の第一巻は、その素朴さに対して、ゲーテから好意的な評価を受けた。BrentanoとAchim von Arnimとの出会いも、Grimm兄弟の口承文学への興味に影響を与えた。

Von Savignyは1804年にマールブルグ大学を辞め、パリでローマ法の研究に携わっていた。1805年に、彼の許へ法政史研究助手として赴いたJacobは、半年ほどの滞在期間中、古文書を読み進めるうち、興味の対象が益々、古文学や民間伝承へと移っていった。1806年、Jacobはマールブルグ大学を中途退学して法学の勉強は諦めてしまった。彼は、家族のもとカッセルに戻って、ヘッセン国陸軍省の書記としての仕事をしながら、言語学者・文学研究者になる為の研究を続けていった。弟のWilhelmは、1806年に無事、法学部を卒業した。

Marburgでの、Von Savigny、Clemens Brentano、Carl Joachim Friedrich Ludwig Achim von Arnimとの出会いが、兄弟が「子供と家庭の童話集」収集を始める大きなきっかけになったことは、疑う余地がない。もし、この出会いがなかったら「子供と家庭の童話集」はこの世に存在していなかったかもしれない。1812年12月20日、Grimm兄弟の「子供と家庭の童話集」の記念すべき第一巻が発行された。

 

8. 大学の児童書に関するゼミのテーマと勉強の方法

ドイツの大学のゼミシステムは、人文科学系においては、発表が中心となる。ゼミのテーマに関して、予め毎回異なった課題が出ており、学生は、自分の興味がある課題を選び、それに関して発表、質問を受け、論議する。発表の際には、自分の考えを、出席者にいかに明確に分かり易く伝えるかが求められる。

マールブルグ大学食堂

マールブルグ大学食堂

 ちなみに、児童書に関する大学でのゼミのテーマは、例えば「子供の本の歴史、その始まりから第一次世界大戦まで」「1980年代の児童文学におけるファンタスティック」「絵本におけるモダンな物語形式と小学校の授業における(絵本の)導入」「現代推理小説」「宗教的児童文学」といった内容である。教授は、学生と同様にディスカッションに参加、討論は非常に積極的に行われる。これは、学校時代の教育方針も大きく影響を与えているのではないだろうか。

ギムナジウム(9年制の中高等学校)の授業でも、自分の意見をはっきり伝えることは、非常に大切な要素となっている。余談になるが、例えば、あるギムナジウムでは、クラスを二つのグループに分け、一つのグループは、チョコレート賛成派、もう一つは、チョコレート反対派とする。グループを作る際、個々がチョコレートに対して、どのような意見をもっているかは、省みられない。賛成派は、何故チョコレートを支持するか、反対派は、何故否定するのかの意見を述べあう。

如何に論理的に自分の意見を述べられるか、また、相手の意見に対する反対意見を述べる際も、如何に相手を納得させられるかが重要になる。このように、学生達は、学校時代から、ディスカッションに対するトレーニングを積んできている。

大学ゼミナール風景

大学ゼミナール風景

ゼミの発表も、参加人数が多い場合など、グループで行われる場合もある。発表者は、予めレジュメを作り、ゼミ出席者に配布する。参考文献も自分で選び、レジュメに記載しなければならない。自分で参考文献を選ぶ為には、当然のことながら、その文献を読まなければならず、発表の準備するためには、かなりの準備期間を要するが、自分の課題に関して深く調べることにより、その知識がしっかりと身につくことは確かである。学期休み中に、その発表をレポートにしてまとめることを求められる場合も多々ある。

大学ゼミナール風景

大学ゼミナール風景

試験も、大抵の場合(言語学など、知識が求められる分野以外は)、論文形式が多く、質問は一つだけ「…について述べよ」というもので、とにかく、「書く」ことが求められる。卒業試験の際の筆記試験でも、同様に質問は一問のみ、下書き用と清書用に白紙のレポート用紙が何枚も配られ、主専攻に対しては5時間、副専攻は4時間の時間が与えられ、その課題について、自分の意見をまとめる。具体的な課題に関しては、もちろん前もって知らされていないが、大きなテーマはある程度分かっているので、その分野に関して、自分で選んだ何冊もの本を読んで、準備しておかなければならない。このように、ドイツの大学、特に人文系の学部では、答えが正しいか否かということよりも、それぞれの学生が自分の意見を持ち、それを発表し、まとめる力をつけることが、求められている。

 

※本記事は、2009年1月に発行された光陽メディア「草の根エージェント通信」より転載